本願寺の二分化 西本願寺と東本願寺
京の冬の旅 特別拝観
東本願寺・御影堂門
世界最大級の木造建築・御影堂などの諸堂が並ぶ、東本願寺。その境内入口にそびえ建つ御影堂門(ごえいどうもん・重文)を、今回京の冬の旅で3回上がらせていただきました。
東本願寺の御影堂門は明治44年の再建で、高さ約27mの日本一高い木造楼門(二重門)。上層には釈迦如来と弥勒菩薩、阿難尊者の三像が安置されています。
楼上からは、東山連峰が連なるパノラマの景色が広がり、緑の山に赤い色がきわだつ 『 清水寺・子安の塔 』 や、如意ヶ嶽・五山送り火の 『 大 』 の文字などを見ることができます。
さて、東本願寺の宗派は浄土真宗大谷派、正式名称は 『 真宗本廟( しんしゅうほんびょう )』 といいますが、東本願寺の一本西の堀川通りには西本願寺が建ちます。
かつては一つのお寺で、今から約400年前の天正19年(1591)、豊臣秀吉から堀川六条(現在の西本願寺の場所)に寺領を与えられ、京都の 『 本願寺 』 として浄土真宗の教えを広めていました。
堀川六条の場所に移る前、今から約550年前の長禄元年(1457)には、本願寺第8世の蓮如が浄土真宗の開祖・親鸞聖人の教えを継承し、教えは近畿、東海、北陸へと広がります。すると、これをよく思わない比叡山衆徒から弾圧を受けて、布教の場を滋賀、福井、京都の山科(山科本願寺)、大阪の石山(石山本願寺)、和歌山、大阪へと移していきました。
布教の場を転々としても信者の数はますます増えて大きくなり、戦国時代の権力者・織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たちは、巨大化していく本願寺からいつも目が離せませんでした。
【戦国武将と本願寺】
織田信長は本願寺に対して弾圧と戦いを挑み、豊臣秀吉は信長とは反対に胡麻をするかのように “ 堀川六条 ” に寺領を与え、徳川家康は本願寺内部の二分化を利用して、 “ 烏丸六条 ” に本願寺(東本願寺)を造らせるなど、本願寺の歴史を見れば、時の権力者の思惑や性格がわかります。
権力者の利害によって本願寺や信徒は翻弄されます。元亀元年(1570)の石山合戦で本願寺は織田信長と11年戦い続けますが、第11世の顕如と信長は和睦。このころから、本願寺内部では、信長の和睦を受け入れた父・顕如の温厚派と、信長にいつまでも対抗を抱く長男・教如の強硬派に分かれていきました。
織田信長が亡くなり、豊臣秀吉の時代になると本願寺は堀川六条に寺領を与えられ、第11世・顕如が継承しますが、顕如が亡きあとは、三男の准如が引き継いだ(豊臣秀吉の意向)ため、父・顕如の意志と共にしなかった長男・教如は裏方の存在になりました。
この裏方でくすぶっている教如に目をつけたのが徳川家康で、家康は教如に本願寺の目と鼻の先である烏丸六条の土地を授けて、教如が率いる本願寺を作らせ、巨大化していた本願寺の内部の勢力を二分化させたのでした。
顕如の本願寺に対して、東に位置することから東本願寺と呼ばれ、以後人々は通称名の西本願寺、東本願寺と呼んで区別しました。
東本願寺の御影堂門を上り、立派で重厚な圧巻の御影堂を望み、175,000枚ある瓦の枚数に驚き、浄土真宗大谷派衆徒の歴史と信仰の厚さをひしひしと感じた特別拝観でした。
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